備忘録

勉強や読書の記録

上田紀行『生きる意味』,岩波書店,2005

 上田紀行氏『生きる意味』を読了.私も22歳になるまで殆ど人に言われるがままに過ごしてしまい,大変恥ずかしいが,生きる意味を見出せない人間の一人である.2005年に出版された本書には11年後の現在にも当てはまることが書かれており,著者の視点の鋭さには驚かされる. 

生きる意味 (岩波新書)

生きる意味 (岩波新書)

 

 本書の主張はこうだ.まず,生きる意味を見出すためにも自身のワクワクすることと苦悩を大切にする.自身と同じ人間である他者にも同様にワクワクすることと苦悩が存在することを理解する.これを,他者を尊重することだと言う.このワクワク苦悩を大切にするために適切なコミュニティを設け,個々人が生きる意味を考えられる環境を実現したいと言う.

 生きる意味において重要なワクワクと苦悩は,日本社会でよく聞く「そんなことをすると,あのおばあちゃんに怒られますよ.ほら,〇〇ちゃんのことを睨んでいるでしょう.」等と人の目を幼い頃から意識させつづけてきたことで失われたと述べられている.人の目を意識するのは子供だけではない.企業においては,上司に気に入られるように振る舞ってきた結果,業績悪化に伴いリストラされたという事例も挙げられている.競争の激化により既存のモデルでは対応できなくなったため,グローバリズムを受け入れるという選択に至るのだが,このグローバリズムによって生きる意味を取り戻せるかというとそうではないと言う.著者によると,市場原理主義ネオリベラリズムイデオロギーと表裏一体の関係にあるグローバリズムはあらゆるもののコモディティ化*1を加速させる.極端なことを言えば,結果(数字)が全てという弱肉強食の世界になると言う.それだけでなく,結果に拘ることで自身の行いを評価する人間を意識することに繋がり,より一層人の目を意識することになると言うのだ.その他にも数字信仰や教育に関する話題等も挙げられている.

 生きる意味に向き合うきっかけとなる良著だが,個人的には納得できない部分も多い.例えば,著者はこのように主張している.

構造改革」論者は,改革によって「強い個人」が生まれると言う.しかし,私には全くそうだとは思えない.そのシステムに耐えられる強さを獲得できる人間の数は限られている.確かにこの社会の少数者は「強い個人」を獲得するかもしれない.しかし大多数の私たちはそんな強い人間にはなりえない.それは私たちが決して劣っているからではない.そもそも新自由主義は,自然な人間としてはあり得ない強度を持つ人間を標準として措定しているからである.そして,そうした「強い人間」が標準とされ,「弱い人間」は努力の足りない人たちだとして,「強くなれないのは自己責任だ」として切り捨てられることになる.私たちの大多数はその「弱さ」を責められ,泣き寝入りを余儀なくされることになるだろう.

 まず,自然な人間の強度が不明確だ.人間の優れている点は思考・学習能力であり,自分の環境を変えるだけでいくらでも強度を変えられる.また,努力の足りない人を「弱い人間」としているが,ここで言う弱い人間は「強くない人間」,簡単に言えば,いわゆる成功者ではない人たちだ.その中には,努力の方向が適切であるにも関わらずまだ結果を得られていない人や,明後日の方向に努力をしている人もいる.少なくとも後者に関しては結果が得られないのは仕方のないことである(その努力自体は別のところで活きる可能性もあるので,無駄ではない).そうした人々を「弱い人間」として同列に扱うのは,多少無理があるのではないかと思う.また,泣き寝入りする前にやれることはいくらでもある.例えば,自身の不勉強を後悔しているのならば,少なくとも日本においては,公立図書館等の資料は,もちろん地域差はあるが,充実している部類だと思う.日本に限定しないのであれば,十分な環境が用意されていない地域もあるので,「弱い人間」にやり直すチャンスや最低限必要な環境(教育等)を与えるのは重要だ.

 だが,「弱い人間」の周囲にも,本人が気づいていないだけで,実は素晴らしい環境が用意されている場合は少なくない.弱い人間だから仕方ないと甘えるのではなく,今一度自身を見つめ直し,それまでと少しでも違うことを始めてみること,そして,それを善しとする環境も,生きる意味を見出す上で重要だと思う.

*1:コモディティについては,瀧本哲史『僕は君たちに武器を配りたい』,講談社,2011を参照されたい.