備忘録

勉強や読書の記録

千野栄一『外国語上達法』,岩波新書,1986

 以前読んだ佐藤優氏の著書に名前があったので,読んでみた.

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)

 

 中身は至極真っ当で,結論から言うと,外国語を習得するには,

  1. 目的と目標を決め,
  2. 金と時間を投資し,
  3. 語彙と文法を覚える.

の3ステップが大切だと言う.4~11章で覚えるべき語彙,学習書の選び方,発音等,実際に習得するために詳細に方法が述べられている.

 自分の場合は,日本以外を選択肢に持てるように,つまり,英語で意思疎通が図れるレベルまで上げたい.目標は大体4,5年後.ボキャビルや文法はやるべきものが手元にあるし,恐らくそれで充分なので,課題は会話である.

 実を言うと,本書の内容は予め他の書籍で大体の部分を知っていたので,本書を読んで得たものは会話とレアリアの2章だけだった.この2章の中から印象に残っている部分を引用する.

 まずは会話の章から.

会話というものは自分が相手の人に伝えたいことを伝え,相手の人が伝えたいと思っていることを聞くことであって,自分がたまたまその外国語で知っている句を使ってみることではない. 

 イデオロギーとしての英会話(晶文社,1976年)の巻頭で挙げられているエピソードも興味深い.

 最後に,英会話がいかにコミュニケーションの障壁になっているかについて述べよう.もちろん英会話を勉強した人々は,駅への方向を訪ねたり,買い物の値段を聞くのは上手であるが,それは私が意味するコミュニケーションの種類ではない. 一体どうして英会話が障壁として作用するのかを述べるのは困難であるが,それは特定の内容を理解し始める以前に何かを感じさせられてしまうからだといったらいいかもしれない.一つの逸話を述べておこう.

 五年前のある大晦日の真夜中,私は,金沢の寺の境内で,大きな金が鳴らされているのを聴いて立っていた.冬の最初の雪は数時間降り続き,信念は全く新世界として,白く幻想的にその姿を現していた.私が巨大な鐘の荘厳な響きに耳を傾けていると,一人の男がやって来て尋ねた.『すみませんが,英語であなたに話してよろしいでしょうか』複雑な考えが私の心を満たしたが,私は『もちろんですよ』というほかなかった.それから彼は,お定まりの質問のリストを浴びせかけた.

 『どこから来たか』

 『日本にどれくらいいたのか』

 『金沢で観光旅行をしているのか』

 『日本食を食べられるか』

 『この儀式がどういうことかわかるか』

 彼の質問は,儀式のムードから私を押しのけ,鐘の響きから,冷たい空気の香りから,私を押しのけ,『鎖国』の浸透不可能な壁の向こう側にまで押しのけてしまった.

 彼の言葉は,『I have a book』と同じくらい,情況に適っていなかった.彼が言ったことはすべて,真実私に向けて言われたのではなかったし,彼はその答えに興味を持っていたわけでもなかった.彼は全く私に話しかけたのではなく,私の存在がたまたま彼に思い出させた外人という,彼の心の中のステレオタイプに話しかけたのであった.私に話しかけていたのは,彼自身でもなかった.彼が暗誦した文章は型にはまったお定まりで,その文章と彼自身の性格,考えや感じ方との間に何らかの関わりがあると信ずるのは難しかった.それはむしろ,二つのテープ・レコーダーの間でなされた会話であった.

 ついに彼が去り,私が不快がっているのを眺めていた他の男がやって来て,やさしくほほえみながら日本語で私に言った.『ああいう風に英語をしゃべる日本人は,日本のことを知らないんだから,あまり聞かない方がいいよ』私はとてつもない感謝の気持ちでいっぱいになり笑い出した.鎖国の壁は再び取り払われた.

 自分がスピーキングで使う英語も,自分のものではない印象を抱いているのだが,これを克服するためには「いささかの恥と軽薄さ」を持ち,ゲーテファウストにあるように「Es irrt der Mensch, solang er strebt.(人は努力する限り過つもの)」だと割り切って,ひたすらに練習を重ねるしかないと書かれている.社会人になったらDMM英会話するぞ… 

 レアリア(realia)の章は,サブタイトルからして良い.11章には「レアリア ― 文化・歴史を知らないと…」というタイトルが与えられており,この章では教養の有無で解釈が変わるという例を示している.その一つを引用する.チェコの英語・英文学者であるビレーム・マテジウスの著書である『英語なんて怖くない ― 言語体系への指針』の最後の章に以下の記述がある.

 英国の物とチェコの物では,同じ意味を持つ語で示されていようとも,いつもそれが同じものを示しているとは限らないことは,これまでに述べてきた通りである.しかし英語を学ぶものは,このことによく注意しなければならない.そこでこの章では,英国の現実がチェコあるいはスロバキアの現実と色々な面で異なっていることについて述べてみよう.次にちょっとした例を挙げる.

 "A cup of tea"は簡単に言えば「一杯のお茶」である.だが,イギリス人がこの言葉で理解するものと,我々がこの言葉で理解するものとは同じではない.問題になっている茶碗は両方とも同じかもしれないが,中身はそれぞれ違っている.わが国の場合は,少量の中国産あるいはロシア産のお茶を漉して得られたややくすんだ金色の液体で,これに砂糖を入れて甘くしてから,そのまま飲むか,レモンのしぼり汁,あるいはラムまたはコニャックを加えて飲む.ところがイギリスでは,中国産のよりずっと味が濃いインド産あるいはセイロン産のお茶をもっと多量入れて漉して作るが,そのようにして得られた焦げ茶色をした液体は,生のミルクと混ぜられる.

 (中略)

 以上述べてきたことから分かるように,英国の現実とチェコの現実はただ細かい点にあるのではなく,英国とチェコでは社会構造が違うことが重要だということがお分かりであろう.外国語を学ぶ大きな意味は,これらの差異を我々が認識することにあるのである. 

 歴史を学ぶ目的がひとつはっきりして,歴史を勉強したくなってきた.学校でこういうことを教えてくれれば,高校や大学時代に遊び倒すだけでなく,もっと勉強に時間を割いてたのに….言語はそもそも伝達が目的なので,レアリア(教養)による言語外情報も大切な情報源の一つである.そう考えると,これまで読んできた英文や書物も,歴史や文化に対する知識が欠落しているために,十二分に内容を吸収できていないんだろうなあ.バカつらい.

 本書の最後は,「感心するだけでは意味がないので,実際にやれ」と締められている.その通りなのだが,最優先事項の処理(修士論文)があるので,さっさと片付けねば…