備忘録

勉強や読書の記録

稲垣佳世子,波多野誼余夫『人はいかに学ぶか-日常的認知の世界』,中公新書,1989

 今回の記事は,『人はいかに学ぶか-日常的認知の世界』.昨年末に読み終えていたのだが,色々とやっていた結果,年を跨いでしまった.

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)

 

 学ぶというと,どのようなイメージを抱くだろうか.小学校や中学校など,学校で教師が前に立って話をし,学生がそれを聞いている光景だろうか.私はもっとポジティブなものを想像したが,おそらく2年前ならそのようなイメージを抱いただろう.少なくともこうした姿は,学生たちは受身であり,積極的とは言えない.

 教育現場はこのように無能で受動的な学生を想定したような環境だが,本来人間は無能な存在ではないという.その根拠として,人間の祖先の猿を挙げている.猿は,ライオンなどに比べると,広範囲に生息している.ライオン等限られた地域に生息する生物はその地域で起り得る問題に対処できればよいが,広範囲に活動するには,より様々なリスクに対処できる必要がある.つまり,猿はこうした問題に対処できる,能動的で有能な学び手なのだ.ゆえに,猿から進化した人もまた能動的で有能な学び手と言える.

 そう考えると,先程述べた受動的で無能な学生を想定した教育方法は適切なのだろうかという疑問が浮かんでくる.本書は人間がいかに能動的で有能な学び手であるかを示すエピソードを多数示している.

 簡単にまとめると,能動性は,己が心の底から納得できる「必要性」と,「知的好奇心」(=なぜ?)に従うことで確認できる.有能さは,生得的制約も一部あるが,文化によるサポートや実際のアクションと豊富な知識による思考方向の制限で確かめられる.

 必要性はともかく,どのようにして知的好奇心を刺激すれば良いかは言及されていない.必要性を要求してるので勝手に湧くのだろうが.有能さについては,文化によるサポートや実際のアクションも結局,本書で言うところの概念的知識を得るところに意味がある.だから,アクションだけするというやりっぱなしはダメで,うまくいった時もいかなかった時も「なぜそうなったのか?」と問うことで概念的知識に昇華する,らしい.

 本書の良いところは,有能さは知識に依存すると明言している点にある.最近の意識高い本は意思決定についてばかりで(それはそれで価値ある内容だとは思うが),そもそも適切な意思決定を支援する知識について言及している本は,読んだ限りではほとんどなかった.やればなんとかなるマッチョを想定しているのだろうか…知識ないと意思決定できない…

 能動的に振る舞うには必要性が大事だという話もあった.本を書くような知的水準の高い人は大抵高校教育までの内容は十分に勉強しているだろうし,文脈を共有するためにも勉強し直さないと…さっさと修論から解放されたい…