備忘録

勉強や読書の記録

マルクス・アウレーリウス『自省録』,岩波書店,2007

 ようやくマルクス・アウレーリウスの自省録を読み終えた.

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

 

 本書は,マルクス・アウレーリウスが心に浮かぶ感慨,思想,自省自戒の言葉などを自身に向けて書き留めた手記の訳書である.情けない話だが,難しすぎて半分も理解できなかった…もう少し物を知った後で読み直さなければならない.尖った私には耳の痛い話が多く,忘れないように,せめて,今の自分に理解できる部分を引用しておく.

 祖父ウェールスからは,清廉と温和.(第一巻 一)

 父に関して伝え聞いたところと私の記憶からは,慎ましさと雄々しさ.(第一巻 二) 

 母からは,神を畏れること,および惜しみなく与えること.悪事をせぬのみか,これを心に思うさえ控えること.また金持ちの暮しとは遠くかけ離れた簡素な生活をすること.(第一巻 三)

 ルスティクス からは,自分の性質を匡正し訓練する必要のあるのを自覚したこと.(中略)また腹を立てて自分に無礼を加えた人びとにたいしては和解的な態度をとり,彼らが元へもどろうとするときには即座に寛大にしてやること.注意深くものを読み,ざっと全体を概観するだけで満足せぬこと.饒舌家たちにおいそれと同意せぬこと.エピクテートスの書きものを知ったこと.この本を彼は自分の書庫から出してきてくれたのであった.(第一巻 七)

 アポローニオスからは,独立心を持つことと絶対に僥倖をたのまぬこと.たとえ一瞬間でも,理性以外の何ものにもたよらぬこと.ひどい苦しみの中にも,子を失ったときにも,長い患いの間にも,つねに同じであること.同一の人間が一方では烈しくありながら,他方では優しくありうるということを生きた例ではっきりと見たこと.ひとに説明するとき短気を起さぬこと.経験に富み,哲学的原理をひとに伝えることが堪能であり,しかも明らかにこれらを自分の才能の中でもっとも数うるに足らぬものと考えている人間をみたこと.友人たちから恩恵と思われるものを受けるに際して,そのために卑下もせず,そうかといって冷然と無視もせず,いかにこれを受けるべきかを学んだこと.(第一巻 八) 

 セクストスからは,親切であること.父権に支配されている家の例.自然に従って生きるという概念.てらいのない威厳.友人たちにたいするこまやかな思いやり.無知な者および道理をわきまえぬ者に対する忍耐.

 またあらゆる人を適当に遇する道.それゆえに彼とまじわることはいかなるお追従よりも愉快であって,そういう機会に人びとは彼にたいしてきわめて深い尊敬の念をおぼえるのであった.また人生に必要な信条を見出し,これを適当に分類するのに優れた理解力と方法を示したこと.

 また怒りやその他の激情の兆候をゆめにも色にあらわさず,このうえもなくものに動ぜぬ人間であると同時に,このうえもなく愛情にみちた人間であったこと.仰々しくなく賞讃すること.多くの知識を持ちながらそれをひけらかさぬこと.(第一巻 九)

 プラトーン学派のアレクサンドロスからは,「私は暇がない」ということをしげしげと,必要もないのに人にいったり手紙に書いたりせぬこと.また緊急な用事を口実に,対隣人関係のもたらす義務を絶えず避けぬこと.(第一巻 一三)

 マクシムスからは,克己の精神と確固たる目的をもつこと. いろいろな場合,たとえば病気の場合でさえも,きげん良くしていること.優しい処と厳格なところがうまくまざり合った性質.目前の義務を苦にせず果すこと.

 彼のいうことはそのまま彼の考えていることであり,彼のやることは悪意からではないと万人が信じたこと.驚かぬこと,臆さぬこと.決してあわてたり,しりごみしたり,とまどったり,落胆したり,作り笑いしたりせぬこと.また怒ったり,猜疑の心をおこしたりせぬこと.

 慈善をなし,寛大であり,真実であること.修養して正しくなった人間,というよりはむしろ転生まがったことのない人間,という印象を与えたこと.なんぴとも自分が彼に軽蔑されていると考える者もなければ,自分が彼よりも優れているとあえて考える者もいなかったこと.(第一巻 一五)

 思い起せ,君はどれほど前からこれらのことを延期しているか,またいくたび神々から機会を与えて頂いておきながらこれを利用しなかったか.しかし今こそ自覚しなくてはならない,君がいかなる宇宙の一部分であるか,その宇宙のいかなる支配者の放射物であるかということを.そして君には一定の時の制限が加えられており,その時を用いて心に光明を取り入れないなら,時は過ぎ去り,君も過ぎ去り,機会は二度と再び君のものとならないであろうことを.(第二巻 四)

 至る時にかたく決心せよ,ローマ人として男性として,自分が現在手に引受けていることを,几帳面な飾り気のない威厳をもって,愛情をもって,独立と正義をもって果そうと.また他のあらゆる思念から離れて自分に休息を与えようと.その休息を与えるには,一つ一つの行動を一生の最後のもののごとくおこない,あらゆるでたらめや,理性の命ずることにたいする熱情的な嫌悪などを捨て去り,またすべての偽善や,利己心や自己の分にたいする不満を捨て去ればよい.見よ,平安な敬虔な障害を送るために克服する必要のあるものはいかに少ないことか.以上の教えを守るものにたいして神々はそれ以上何一つ要求し給わないであろう.(第二巻 五) 

 せいぜい自分に恥をかかせたらいいだろう.恥をかかせたらいいだろう,私の魂よ.自分を大事にする時などもうないのだ.めいめいの一生は短い.君の人生はもうほとんど終りに近づいているのに,君は自己にたいして尊敬をはらわず,君の幸福を他人の魂の中におくようなことをしているのだ.(第二巻 六)

 他人の魂の中に何が起こっているか気をつけていないからといって,そのために不幸になる人はそうたやすく見られるものではない.しかし自分自身の魂のうごきを注意深く見守っていない人は必ず不幸になる.(第二巻 八)

 たとえ君が三千年生きるとしても,いや三万年生きるとしても,記憶すべきはなんぴとも現在生きている障害以外の何ものをも失うことはないということ,またなんぴとも今失おうとしている生涯以外の何ものをも生きることはない,ということである.(中略)であるから,次の二つのことをおぼえていなくてはいけない.第一に,万物は永遠の昔から同じ形をなし,同じ周期を反復している,したがってこれを百年見ていようと,二百年見ていようと,無限にわたって見ていようと,なんのちがいもないということ.第二に,もっとも長命の者も,もっとも早死する者も,失うものは同じであるということ.なぜならば人が失いうるものは現在だけなのである.というのは彼が持っているのはこれのみであり,なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないからである.(第二巻 十四) 

 人生は一日一日と費されて行き,あますところ次第に少なくなって行く.それのみかつぎのことも考慮に入れなくてはいけない.すなわちたとえある人の寿命が延びても,その人の知力が将来も変りなく事物の理解に適し,神的および人間的な事柄に関する知識を追及する観照に適するかどうか不明である.なぜならば,もうろくし始めると,呼吸,消化,表象,衝動,その他あらゆる類似の機能は失われないが,自分自身をうまく用うること,義務の一つ一つを明確に弁別すること,現象を分析すること,すでに人生を去るべき時ではないかどうかを判断すること,その他すべてこのようによく訓練された推理力を必要とする事柄を処理する能力は真っ先に消滅してしまう.したがって我々は急がなくてはならない.それは単に時々刻々死に近づくからだけではなく,物事に対する洞察力や注意力が死ぬ前にすでに働かなくなってくるからである.(第三巻 一) 

 もし君が目前の仕事を正しい理性に従って熱心に,力強く,親切におこない,決して片手間仕事のようにやらず,自分のダイモーンを今すぐにもお返ししなくてはならないかのように潔くたもつならば,またもし君がこのことをしっかりつかみ,何ものをも待たず,何ものをもよけず,自然に適った現在の活動に満足し,ものをいう場合にはいにしえの英雄時代のような真実をもって語ることに満足するならば,君は幸福な人生を送るであろう.誰一人それを阻みうる者はいない.(第三巻 一二) 

 いかなる行動をもでたらめにおこなうな.技術の完璧を保証する法則に従わずにはおこなうな.(第四巻 二) 

 波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ.岩は立っている,その周囲に水のうねりはしずかにやすらう.「なんて私は運が悪いんだろう,こんな目にあうとは!」否,その反対だ,むしろ「なんて私は運がいいのだろう.なぜならばこんなことに出会っても,私はなお悲しみもせず,現在におしつぶされもせず,未来を恐れもしていない」である.なぜなら同じようなことは万人に起こりうるが,それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない.それならなぜあのことが分で,このことが幸運なのであろうか.いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか.そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか.いや,その意志というのは君も学んだはずだ.君に起こったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか.またひろやかな心を持ち,自制心を持ち,賢く,考え深く,率直であり,謙遜であり,自由であること,その他同様のことを妨げるか.これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を真っ当することができるのだ.今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら,つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな.曰く「これは不運ではない.しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である.」(第四巻 四九)

 明けがたに起きにくいときには,つぎの思いを念頭に用意しておくがよい.「人間のつとめを果すために私は起きるのだ.」自分がそのために生まれ,そのためにこの世にきた役目をしに行くのを,まだぶつぶついっているのか.それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか.「だってこのほうが心地よいもの.」では君は心地よい思いをするために生まれたのか,いったい全体君は物事を受身に経験するたmねい生まれたのか,それとも行動するために生まれたのか・小さな草木や小鳥や蟻や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ,それぞれ自己の分を果して宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか.

 しかるに君は人間のつとめをするのがいやなのか.自然にかなった君の仕事を果すだろうために馳せ参じないのか.「しかし休息もしなくてはならない.」それは私もそう思う,しかし自然はこのことに限度を置いた.同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた.ところが君はその限度を越え,適度を過ごすのだ.しかも行動においてはそうではなく,できるだけのことをしていない.

 結局君は自分自身を愛していないのだ.もしそうでなかったらば君はきっと自己の(内なる)自然とその意志を愛したであろう.ほかの人は自分の技術を愛してこれに要する労力のために身をすりきらし,入浴も食事も忘れている.ところが君ときては,款彫師が彫金を,舞踊家が舞踊を,守銭奴が金を,見栄坊がつまらぬ名声を貴ぶほどにも自己の自然を大切にしないのだ.右にいった人たちは熱中すると寝食を忘れて自分の仕事を捗らせようとする.しかるに君には社会公共に役立つ活動はこれよりも価値のないものに見え,これよりも熱心にやるに値しないもののように考えられるのか.(第五巻 一)

 君の頭の鋭さは人が関心しうるほどのものではない.よろしい.しかし「私は生まれつきそんな才能を持ち合せていない」と君がいうわけにはいかにものがほかに沢山ある.それを発揮せよ,なぜならそれはみな君次第なのだから,たとえば誠実,謹厳,忍苦,享楽的でないこと,運命にたいして呟かぬこと,寡欲,親切,自由,単純,真面目,高邁な精神.今既に君がどれだけ沢山の徳を発揮しうるかを自覚しないのか.こういう徳に関してはうまれつきそういう能力を持っていないとか,適していないとかいい逃れをするわけにはいかないのだ.それなのに君はなお自ら甘んじて低いところに留まっているのか.それとも君は生まれつき能力がないために,ぶつぶついったり,けちけちしたり,おべっかをいったり自分の身体にあたりちらしたり,人に取り入ったり,ほらを吹いたり,そんなにも心を乱さなければならないのか.否,神々に誓って否.とうの昔に君はこういう悪い癖から足を洗ってしまうことができたはずなのだ.そしてなにか責められるとすれば,ただのろまでわかりが鈍いということだけいわれるので済んだはずなのだ.しかもこの点についてもなお修養すべきであって,この魯鈍さを無視したり楽しんだりしてはならない.(第五巻 五)  

 ある意味で人間は我々にとってもっとも関係の深い存在である.我々が人間にたいして善くしてやったり,これを耐え忍ばなくてはならないという点に関するかぎりそうである.ところが,人間の中には私自身に特有な活動を邪魔する者があるという点に関するかぎり,人間は私にとって,太陽や風や野獣にも劣らぬほど緑なき衆生となってしまう.このような人間によって私の活動はいくぶん束縛を受けるかもしれない.しかし私の自発性と心がまえは束縛されない.なぜならば私はある制約の下に活動することや,障碍物をくつがえすことができるからである.実際我々の精神はすべてその活動の妨げになるものをくつがえし,これを目的の達成に役立つものと変えてしまう.かくて活動の妨げになっていたものが却ってこれを助けるものとなり,道の邪魔をしていたものが却ってこの道を楽にするものとなってしまうのである.(第五巻 二〇)

 他人のいうことに注意する習慣をつけよ.そしてできるかぎりその人の魂の中にはいり込むようにせよ.(第六巻 五三)

 信条というものは死ぬことはない.これに相応する観念が消滅してしまわないかぎり,どうして死ぬことがありえようか.そしてこれらの観念をたえず新たな焔に燃え上がらせることはひとえに君にかかっているのである.

 私は物事について自分の持つべき意見を持つことができる.それができるなら,なぜ私は心を悩ませるのだ.私の精神の外にあるものは,私の精神にとってなんのかかわりもない事柄だ.このことを学べ,そうすれば君はまっすぐに立つ.

 君は更生することができる.物事を再び以前のような眼をもって見よ.更生とはこのことにあるのだから.(第七巻 二)

 会話に際しては人のいうことに注意していなくてはならない.またあらゆる行動に際しては,その結果生じてくることに注意していなくてはならない.後者において,それがどんな目的に関連しているかを最初から見抜くこと,前者においては,その意味がなんであるかを注意すること.(第七巻 四)

 人に助けてもらうことを恥ずるな.なぜなら君は兵士が城砦を闘い取るときのように,課せられた仕事を果す義務があるのだ.もし君が足が不自由であって,城砦を一人では昇ることができず,ほかの人の助けを借りればそれができるとしたらどうするか.(第七巻 七)

 四肢と胴とが一つの身体を形成する場合と同じ原理が理性的動物にもあてはまる.というのは彼らは各々別の個性を持っているが,協力すべくできているのである.君が自分に向かって「私は理性的動物によって形成される有機体の一肢である」とたびたびいって見れば,この考えはもっと君にピンとくるであろう.しかしもし意味がρという文字を使って単に「一部分である」と自分ににうなら,君はまだ心から人間を愛しているのではなく,善事をおこなうことがまだ絶対的に君を悦ばすわけではないのだ.君はまだ単に義務としてこれをおこなうにすぎないのであって,自分自身に施す恩恵としておこなうのではないのだ.(第七巻 十三)

 これを感じうるものにたいしてなんなりと外側から起りたいことが起るがよい. これを感ずるものは,ぶつぶついいたければいうであろう.しかし私は,自分に起ったことを悪いことと考えさえしなければ,まだなんら損害を受けていないのだ.そう考えない自由は私にあるのだ.(第七巻 十四)

 指導理性は自分自身を悩まさない.たとえば自分を欲望の中へ〔陥れる〕ことはない.誰か他人がこれを恐れさせたり悲しませたりすることができるならば,勝手にしてみるがよい.その信念の上からいって,指導理性は自分にこのような方向転換をさせないであろう.

 肉体は,できることならなんの苦痛も受けぬように気をつけたらいいだろう.もしなにか苦痛を受けたならそういうがいい.ところが魂のほうは,恐れたり悲しんだりする能力を持ち,これらのことについて一般に判断を下すことはできるが,実はなんの苦痛も受けえないのである.なぜならばその習性としてこのような判断を下すべく余儀なくされることはないからである.

 指導理性は自ら要求を創り出さないかぎり,それ自身においては,何ものをも必要としないのである.したがって,自己をわずらわしたり束縛したりせぬかぎり,何ものにもわずらわされることはなく,何ものにも束縛されることもない.(第七巻 十六)

 顔は従順に心の命ずるがままの形を取り,装いをつけるのに,心自身は自分の思うがままの形も取れず,装いもつけられるぬとは恥ずかしいことだ.(第七巻 三七) 

 「物事にたいして腹を立てるのは無益なことだ.なぜなら物事のほうではそんなことにおかまいなしなのだから.」(第七巻 三八) 

 至るところ,至る時において君にできることは,現在自分の身に起っている事柄にたいして敬虔な満足の念をいだき,現在周囲にいる人びとにたいして正義にかなった振舞いをなし,現在考えていることに全注意を注ぎ,充分把握されていないものはいっさいそこに忍び込む余地のないようにすることである.(第七巻 五四) 

 自分の内を見よ.内にこそ善の泉があり,この泉は君がたえず掘り下げさえすれば,たえず湧き出るであろう.(第七巻 五九) 

 完全な人格の特徴は,毎日をあたかもそれが自分の最後の日であるかのごとく過ごし,動揺もなく麻痺もなく偽善もないことにある.(第七巻 六九) 

 君が宮廷生活の不平をこぼすのをこれ以上誰も聞かされることのないように,また君自身も君のこぼすのを聞かされることのないようにせよ.(第八巻 九) 

 眠りから起きるのがつらいときには,つぎのことを思い起せ.社会に役立つ行為を果すのは君の構成素質にかなったことであり,人間の(内なる)自然にかなったことであるが,睡眠は理性のない動物にさえも共通のことである.しかるに各個人の自然にかなったことはその人にとってなによりも特有なことであり,なによりもふさわしいことであり,したがってなによりも快適なはずである.(第八巻 一二) 

 人生を建設するには一つ一つの行動からやっていかなくてはならない.そして個々の行動ができるかぎりその目的を果すならばそれで満足すべきだ.しかるに個々の行動がその目的を果すようにするのを,誰一人君に妨げうる者はない.「ところが外側からなにかの障碍が起ってくるだろう.」しかし君が正しく,慎み深く,思慮深く行動するのを妨げうる者はない.「だが,もしなにかほかの形の行動が妨げられたらどうする.」その場合にはその障碍を快く受け入れ,思慮分別をもって許されていることに転向すれば,ただちに他の行動―さきほど話していた人生建設にあてはまるような行動をもってこれに代えることができるであろう.(第八巻 三二)

 得意にならずに受け,いさぎよく手放すこと.(第八巻 三三)

 君の全生涯を心に思い浮かべて気持をかき乱すな.どんな苦労が,どれほどの苦労が待っていることだろう,と心の中で推測するな.それよりも一つ一つ現在起ってくる事柄に際して事故に問うてみよ.「このことのなにが耐えがたく忍び難いのか」と.まったくそれを告白するのを君は恥じるだろう.つぎに思い起すがよい.君の重荷となるのは未来でもなく,過去でもなく,つねに現在であることを.しかしこれもそれだけ切り離して考えてみれば小さなことになってしまう.またこれっぱかしのことに対抗することができないような場合には,自分の心を大いに責めてやれば結局なんでもないことになってしまうものである.(第八巻 三六)

 人間には,人間的でない出来事は起りえない.牡牛には,牡牛にとって自然でない出来事は起りえない.葡萄の樹には,葡萄に自然でない出来事は起りえない.また医師にも,医師に特有でないことは起りえない.かように,もし各々のものにおきまりの自然なことのみ起るのならば,なぜ君は不満をいだくのか.宇宙の自然は君に耐えられぬようなものはなにももたらさなかったではないか.(第八巻 四六)

 一般にいって悪徳は宇宙に全然害を与えない.また個々の悪徳は他人に全然害を与えず,その個人にとってのみ有害であるが,その人間はいつでもそうしたいと思うときにただちにこれをおいはらう能力を与えられているのである.(第八巻 五五) 

 罪を犯すものは自分自身にたいして罪を犯すのである.不正なものは,自分を悪者にするのであるから,自分に対して不正なのである.(第九巻 四)

 働け,みじめな者としてではなく,人に合われ待たれたり関心されたりしたい者としてでもなく働け.ただ一事を志せ,社会的理性の命ずるがままにあるいは行動し,あるいは行動せぬことを.(第九巻 一三)

 外的な原因によって生ずることにたいしては動ぜぬこと.君の中からくる原因によっておこなわれることにおいては正しくあること.これはとりもなおさず公益的な行為に帰する衝動と行動である.なぜならこれが君にとって自然にかなったことなのだから.(第九巻 三一)

 他人の厚顔無恥に腹の立つとき,ただちに自ら問うてみよ,「世の中には恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか」と.ありえない.それならばありえぬことを求めるな.その人間は世の中に存在せざるをえない無恥な人びとの一人なのだ.悪漢やペテン師やその他あらゆる悪者についても同様な考えをすぐ思い浮かべるがよい.かかるたぐいの人間が存在しないわけにいかないという事実をおぼえていれば,それによって君はそういう個々の人間にたいして,もっと寛大な気持ちをいだくようになるであろう.また即座につぎのことを考えてみるのも役に立つ.「この悪徳にたいするうめあわせとしていかなる徳を自然は人間に与えたか.なぜなら自然は恩知らずの者にたいする解毒剤として,優しさを与え,他の者にたいしてはまた他の力を与えたのである.

 いずれにしても,君は迷える者をさとして心得を改めさせることができる.なぜならすべて過ちを犯す者は,その目標を逸れて迷い出た人間なのだから.

 ところで君はどんな被害を蒙ったのか.君が憤慨している連中のうち誰一人君の精神を損なうようなことをした者はないのを君は発見するであろう.君にとって悪いこと,害になることは絶対に君の精神においてのみ存在するのだ. 

 無作法者が無作法者のすることをしたからとて,なんの悪いこと,怪しむべきことがあろうか.その人間がそのような過ちを犯すであろうことを予期しなかった君こそもっと責めを負うべきでないか考えてみるがいい.なぜならば,その男がそのような過ちを犯すであろうと考えるだけのてだてを,君の理性は君に与えてくれていたはずだ.それなのに君はそれを忘れ,彼がその過ちを犯したからとて驚き怪しんでいるのだ.

 君が他人の不忠と恩知らずを責めるときに,なによりもまず自分をかえりみるがよい.なぜなら君がかかる性質の人を信頼して,彼が君にたいして忠誠を守るであろうと思ったとしても,また恩恵を施してやる場合に徹底的に施さなかったり,君の行為からただちにすべての実を収めうるような具合に施さなかったとしても,いずれの場合にも明らかに君のほうが悪いのだ.

 人に善くしてやったとき,それ以上のなにを君は望むのか.君が自己の自然に従って何事かおこなったということで充分ではないのか.その報酬を求めるのか.それは眼が見るからといって報いを要求したり,足が歩くからといってこれを要求するのと少しも変りない.なぜならば,あたかもこれらのものが各々その特別の任務のために創られ,その固有の構成に従ってこれを果し,そのことによって自己の本分を全うするように,人間も親切をするように生まれついているのであるから,なにか親切なことをしたときや,その他公益のために人と協力した場合には,彼の創られた目的を果したのであり,自己の本分を全うしたのである.(第九巻 四二)

 すべての出来事は,君が生まれつきこれに耐えられるように起るか,もしくは生まれつき耐えられぬように起るか,そのいずれかである.ゆえに,もし君が生まれつき耐えられるようなことが起ったら,ぶつぶついうな.君の生まれついているとおりこれに耐えよ.しかしもし君が生まれつき耐えられぬようなことが起ったら,やはりぶつぶついうな.その事柄は君を消耗しつくした上で自分も消滅するであろうから.もっとも自分の身のためであるとか,そうするのが義務であるとか,そういう考えかた次第で,つまり自分の意見一つで,耐え易く,我慢しやすくできるようなものもあるが,このようなものはすべて君がうまれつき耐えられるはずのものであることを忘れてはならない.(第十巻 三) 

 もし彼がつまずいたら,親切に教えてやり,見誤った点を示してやれ.それができないなら,自分を責めよ,あるいは自分さえ責めるな.(第十巻 四) 

 君に残された時は短い.山奥にいるように生きよ.至るとこで宇宙都市の一員のごとく生きるならば,ここにいようとかしこにいようとなんのちがいもないのだ.真に自然に適った生活をしている人間というものを人びとに見せてやれ.観察させてやれ.もし彼らに君が我慢ならないなら,彼らをして君を殺させるがよい.彼らのように生きるよりはそのほうがましだから.(第十巻 十五)

 善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ.(第十巻 十六) 

 他人の過ちが気に障るときには,即座に自ら反省し,自分も同じような過ちを犯してはいないかと考えてみるがよい.たとえば金を善いものと考えたり,または快楽,つまらぬ名誉,その他類似のものを善いものと考えるがごときである.このことに注意を向け,さらにつぎのことに思い至れば,君はたちまち怒りを忘れるであろう.それは「彼は強いられているのだ.どうにもしようがないではないか」という考えである.あるいはもし君にできることなら,その人間を強制するものを取り除いてやるがよい.(第十巻 三十) 

 君に関して,誠実でないとか,善い人間でないとか,真実にもとらずにいえる権利をなんぴとにも与えてはならない.君についてそんな考えを持つ者は,だれでも嘘つきにしてやるがいい.君の考え一つでどうにでもなることだ.実際誰が君の誠実であり,善であるのを妨げるか.そういう人間にならないくらいならもう生きるのはやめる,と君が決心さえすればよいのだ.なぜなら君がこのような人間にならないなら,理性もまた君に生きよとは要求しないのである.(第十巻 三二)

 死んでゆくとき,自分にふりかかっている不幸を歓迎する者の一人や二人に囲まれていないような幸運な人間はない.たとえばその人が誠実な賢い人間であったとする.きっと最後の瞬間に人知れずこういう者がいるであろう.「この道学者先生がいなくなって我々もやっと息がつけるというものだ.べつに我々のうち誰にたいしてやかましかったというわけでもないが,ただこの御仁がひそかに我々を非難しているのを私はいつも感じていたのだ」と.これが誠実な人間にたいしての言い草だ.まして我々に対しては大勢の人が我々をお払い箱にしたいと思う理由がほかにどれほど沢山あることだろう.死に際に君はこのことを思うがよい.そしてつぎのように考えれば一層たやすく去って行けるだろう.「私はこの人生を去って行く.その人生においては,私の仲間でさえも,しかり,私があれほど奮闘したり,祈ったり,気を使ったりしてやったその仲間たちでさえも,もしやこれでなにかほかに利益が得られはしまいかとの期待から,私のいなくなるのを望んでいるのだ」と.こんなことならだれがこれ以上ここに滞在することに執着しようか.

 しかしそれだからといって,世を去るにあたり彼らにたいする善意が薄らぐようであってはいけない.自分の平生の性質をそのまま保って友好的に,親切に,慈悲深くあれ.そして彼らの間から去って行くときには,むしり取られるといった具合ではなく,大往生をとげる人間において魂が肉体かららくらくと抜け出ていくような,そんな趣がなくてはならない.なぜならば,自然は君をこの人びとに結び付けて一緒にしたのである.その絆を今自然が解くのだ.私は近しい人びとから離れて行くがごとく,抵抗せずに,しかし強いられもせずに離れていく.これもまた自然にかなった行為の一つなのである.(第十巻 三六)

 書き方と読み方は,まず教わらなくては教えることができない.まして人生においてをや.(第十一巻 二九) 

 自然に従って起る事柄については,神々を責めてはならない.なぜならば神々は意識的にも無意識的にも過ちを犯すことはないからである.また人間をも責めてはならない.なぜならば人間は無意識的にでなければ過ちを犯さないからである.したがってなんぴとをも責むべきではない.(第十二巻 十二) 

 第一に,何事もでたらめに,目的なしにやってはならない.第二に,公益以外の何ものをも行動の目的としてはならない.

 人生における救いとは,一つ一つのものを徹底的に見きわめ,それ自体なんであるか,その素材はなにか,その原因はなにか,を検討するにある.心の底から正しいことをなし,真実を語るにある.残るは一つの善事を他の善事につぎつぎとつないで行き,その間にいささかの間隙もないようにして人生を楽しむ以外になにがあろうか.(第十二巻 二九)